「お電話ありがとうございます。グリーンツダボクシングジムです。」
「笹山と申します。プロ目指してます。そちらで練習させてほしいです。」
ジムの手伝いをしていたある日、入会希望の電話が来た。
「数年前にそちらでプロを目指して練習してました。いったん家の事情でボクシング離れてしまったんですけどまたプロを目指して練習したいです。」
年齢は34歳。数カ月後に35歳。
プロテストの受験要項に「申込時に満34歳であれば受験可」とある。
つまり35歳になった瞬間テストは受けれなくなる。
誕生日とプロテストのタイミングからして練習できるのは4カ月ほどしかない。チャンスはこの一回のみ。
通常テストを受けるために1年間くらい必死に練習し、やっと体力や技術が身に付いてくる。
なのに笹山さんにはたった4カ月しかない。30代が挑戦するにはあまりにも無謀だ。
一応会長に話を伝えます。またこちらから電話させてもらいますね、とだけ伝え電話を切る。
自分のプロへの挑戦も無謀だと思ってたが、世の中にはもっと無謀なことをする人がいるもんだと驚いた。
30代なんてまだまだ若いと言われるが、スポーツ選手として考えると決して若くはない。
練習の疲れは取れないし、技術の習得も20代のように早くはない。短期間でプロを目指すということは短期間に練習を詰め込むということだ。
回復力が落ちている体は当然悲鳴を上げる。
会長に電話の内容を伝えると笹山さんは入会することとなり、すぐに練習を始めた。
「時間がない」
これは本人が一番自覚している。
初日から自分のできること全てを練習にぶつけていた。
誰よりも早くジムに来てウォーミングアップを始め、基本のシャドーボクシングをしながら気づいたことを随時ノートにメモする。そして遅めに練習を終える。
現場仕事をしているので体は絶対きついはずなのに練習でも追い込んでいる。しかもいったんジムを辞めるきっかけとなった家の問題は今も継続しているみたいだ。
問題はこれだけではない。
数年間運動していなかったせいで体重が90㎏近くある。それをプロテストまでのたった4カ月で70㎏くらいまで落とさないといけない。
悪条件が揃いすぎている。
特にボクシングのセンスがあるわけでもなくプロのレベルに達するには絶望的なスタートだった。
なのに今思い返すと「もう無理だ、きつすぎる」なんて弱音を聞いた覚えがない。ジムに来た瞬間からとっくに腹は決まってる。
できるかできないかを見極めに来たんじゃない。合格するためには何をするか、常に今自分にできることに集中している。
一つ一つ目の前の問題に向き合っている。
始めはできなかった縄跳びができるようになり、ジャブに体重が乗るようになり、体形も明らかに変わってきた。
技術も体力もまだ全然ではあるが少しづつ変化してきている。
幸いなことに体だけは強いみたいだ。何とか練習に耐えれている。これが唯一の救い。一度怪我をすると完治するまでに1カ月かかることなんてことは珍しくない。
4カ月しかない中では小さな怪我でも致命傷になりかねない。
笹山さんはこの4カ月間順調に練習を重ね、このままいくと運が良ければもしかすると受かるかもというところまで短期間でなんとか仕上げてきた。
ある日会長から3人に声がかかる。
1人目は笹山さん、二人目は私、三人目は私の後に入会してきて、スパーリングで私をボコボコにした人だ。
会長「プロテストが七夕の7月7日にあるから。それに三人で出るぞ。後一カ月や、頑張れよ」
はいっ!!!
テストの日が完全に決まった。
評価として、私をボコボコにしたボクサーはきっと受かる。心配はない。私は懸念点がまだ残る。落ちても不思議ではない。笹山さんは自分の技術を100%出せたら受かるかもしれない。しかし正直厳しい。
テストの日が決まり一気に気持ちが締まる。が、まだ迷いもある。
もし受かったとすると、ここで自分の目標を達成したことになる。つまりボクシングとはおさらばだ。このままボクシングを辞めて今のレベルで「プロになったぞ」と息子に胸を張れるかと聞かれると、なんか違う。
技術的に町中の喧嘩を抜け出せていない感覚がある。
パンチの打ち方もディフェンスも「これだ!」と掴んだものが何一つない。
初めて入った岸和田のアマチュアジムでサンドバッグを打っていた中学生の方がはるかに綺麗なパンチを打っている。
本当にこれでいいのか?
どうやら私が思い描いていた「プロ」とあの時のアマチュアジムの会長が伝えようとしていた現実の「プロ」には大きなレベルの差があるようだ。
C級のプロライセンスには思っているほどの価値がない。
あの時言われた言葉が何となく理解でき始めた。
もしライセンスを取っても、こんな中途半端な状態では辞めれない。もう少し上手くならなければ。
テストが決まり気持ちは締まったが、胸の内ではもやもやがぬぐえないでいる。
これからどうするかはテストに受かってから考えよう。
やっぱりまだ答えは出ない