支店長がフリーズしてる。
状況をよく理解できていないようだ。
「支店長、今ボクシングしないと絶対後悔します。離れ離れになった子供と会えた時、少しでも胸を張れる父親でありたいです。リスクあるのはわかってます。ボクシングを辞めるときはきっと30代半ばくらいでしょう。正直再就職が簡単ではないことはわかってます。もしかしたら実力が足らなくてプロになれないかもしれません。それでもいいです。覚悟できてます。どんな障害も受け入れます。これで失敗しても納得できます。少しも迷いはないです」
話始めこそびっくりしてこいつは何を言い出すんだという反応だった。寝耳に水と言う言葉がこれ以上当てはまる状況を今まで見たことが無い。
もちろん支店長は考えを改めるよう説得するが、粉々に扉を破壊し大声をあげながら外に飛び出してきた心がおとなしく収まってくれるわけがない。後から聞いた話だが、この時の私の目はまっすぐ前を向いており力が籠ってた。少しの迷いも無く腹をくくっているのが強く伝わったので説得の余地がなかったみたいだ。
僕と支店長の2人だけのミーティングは少なくともいつもの倍の時間がかかった。この時は日本中の銀行が経済情勢に苦しめられ始め、ビジネスモデルの見直しを迫られていた。
銀行業界の大きな転換点。当然毎日業務量が膨大。朝仕事が始まってから夜終わるまでみんな頭をフル回転。あまりの激務に振り落とされる社員達も数多く、辞めていく人が続出。そんな中、時間を取って私の話に耳を傾け理解を示してくれた支店長には感謝である。
「今まで自分のやりたいことを見つけて安定の銀行員を捨てた人はいっぱいいたよ、もちろん説得はしたけど、それを振り切って夢を追いかけてる人達と今でもちょくちょく交流がある。その人達全員に共通していることはね、みんな幸せそうに生きてる。がんばるんやで」
話が終わりミーティング室からでるとオフィスの景色がまた違って見える。いつも通りの明るさを取り戻し、部屋の壁、ファイル、パソコン、デスク、照明から何から「頑張れ、思いっきりやってこい」と背中を押してくれているようだ。今まで私を閉じ込めて外の世界に触れさせないようにしていたこの部屋が、打って変って私を開放し、意思を尊重してくれているように感じた。
この日は2月中旬、約1カ月半後に退職することになる。
家に帰り、母親に報告。
「あ、お母さん、仕事辞めるわ、プロボクサー目指す」
何かのもののついでにさらっと報告。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁ?」
勢いよく首をこっちに捻る。
寝耳に爆竹である。
決して出来の良い息子ではなかったが、平凡な我が家からエリート街道を歩む可能性を秘めた者が現れた。
例え大きな出世なんかしなくても親としては何も心配することは無い。
なのに、、、、、、
母親の顔から怒りを感じる。
「もう決めたから、支店長にも話したねん。辞めてもいいよってさ」さらっと付け加える。どうせ真剣になって報告しようが適当に報告しようが返ってくる言葉も反応も最初から決まってる。
今は心にブレーキをかけようとする意見をとても煩わしく感じる。母親の怒りを適当にあしらう。
「ジムも大阪市にあるどっかのジム探すわ、だから引っ越す。んでアルバイトする。もう決めた」
一度こうすると決めたら親の説得では意見を曲げないのをよく知っている。
説得はせず、ただひたすら怒りをぶつけられた。
「まぁええやんか、したいようにさしたりや」と父親。
「そやそや、こんな育て方したのはお母さんやろ、諦め!」と私。
だれも母親の味方をしない。不憫である。
人事からの呼び出しがあった。
大阪市内の本部に行き、人事の応接室で辞める経緯を説明。
対応してくれたのは少し顔なじみの方。
事前に支店長からある程度の報告を受けており、当然辞める理由を知っているが理解ができない様子。
なぜボクシング?なぜ30歳を超えてから?経験もなかったのに?
耳を澄ますと二人の顔からポカーンって音が聞こえてくる。更に顔の形がクエスチョンマークに曲がっていた。
当然考え直すよう説得を受けるが、負けじと辞めさせてほしいと説得をし返す。
時間を重ね少しずつ納得し始めた二人は、クエスチョンマークに曲げていた顔を少しずつ元に戻し始めた。
「この前会った時と全然眼が違うね。視線をまっすぐこっちに向けてきて、もうどんだけ説得してもダメなんやろなってよくわかるわ」
最終的に納得はしてくれたみたいだ。
職場に戻ると噂を聞きつけた人から内線がたくさんかかってくる。
聞かれることはいつも同じ。なぜ辞めるんだ、将来どうするんだ、今からプロ目指してなんの意味があるんだ、考え直せ。
心にブレーキをかける言葉ばかりを浴びせられる。電話越しで、しかも短時間だけで納得してくれる人なんていなかった。最終的には頑張れよとは言ってくれるものの、あからさまに納得していない声である。何回か同じような受け答えをしていると、だんだん面倒に感じるようになり、詳しく話さないようになる。
「ボクシングが降ってきたんです。ある日突然」
理由もなく振ってくるわけがない。
さて、辞めることは決まったがこれから先どうすればいいのか。一度誰かに相談した方がいいと考え、元プロボクサーの知り合いに連絡することにした。愛称はのぶさん。年齢は辰吉丈一郎世代あたり。
「そうなんかぁ、ボクシングおもしろいやろ、若いうちしかでけへんやから悔いの残らんように頑張れや!!」
「銀行はやめてもいい、自分の人生に逃げ道作って、命落とすかもしれんボクシングを本気でできるか?」
救われた気分だった。自分の存在を肯定してくれたように感じた。
「今度飯でも行くか、知り合いの元世界チャンピオンがやってる店あるからいろいろ話してみたらええんちゃうか、天満駅集合な」
現在は移転しているが、大阪のボクシングファンには有名なBARが天満駅にあった。
店主は元世界チャンピオン
名前は「山口圭司」
え、だれ?
そう、私はボクシングのことを全く知らないのである。
プロになる前、一度現役世界チャンピオンと一緒に練習することがあった。
「どこのジムですか」
名古屋です。
「名前はなんていうんですか」
田中恒成です。
「へえ、ボクシング上手いですね」
ちなみにこの方は世界3階級制覇をしているものすごい選手である。全くそんな人知らなかった。
のぶさん「なあ圭司こいつアホなんやで、銀行辞めて30歳超えてるのにプロ目指すとか言ってるねん。なんで安定の銀行辞めんねんなあ」
店主「なんでそんな狂ったことしたんや、アホやなあ」
この日は二人してアホの言い合いだった。
え、この前は夢を追いかけろとか言ってたやん。
「でもな、こんなアホなやつ好きやねん。若いうちしかでけへん、みんなできることじゃない、限られたやつしかでけへんことや、俺かってボクシングで首の骨痛めて季節の変わり目はつらい、でも挑戦してよかったと思ってるよ。納得できるとこまで頑張れ。それとなあ、プロライセンス取っただけやったらプロちゃうぞ。あんなん簡単に取れる。せっかくプロになったんやったらあのリングの上に立て。それがプロの特権や。あの景色を見てこそプロや!!勝ち負けなんか関係ない。あの景色は特別なものとして一生心に残るわ、
なぁ、そこのお二人さんはカップルか?こいつアホなんやで、30歳超えてるのに銀行辞めてな、、、、、、、、」
とりあえず応援はしてくれているようだった。
この日は3月上旬、外の空気はとても冷たかったが銀行を辞めると決めたときから心はずっとウキウキしてた。