私の英語力が中1から中2レベルに達しようとしていた頃、日本に桜前線が訪れ始め、気づけばあと2カ月ほどでこのジムに来て1年になる。
今のところ目立った成果が無い。
そんな時にジムにやってきたのが
Jr Inson(ジェイアー インソン)
フィリピンのアジアチャンピオンである。
階級はウェルター級(66㎏)
うちの日本チャンピオンのスパーリング相手として1カ月間だけ日本に来てくれることとなった。
グリーンツダジムには2人のチャンピオンがいたことは以前にも話した。
そのうちの一人、練習大好きチャンピオン、
鉄アレイと共に早朝ランニングをし、鉄アレイと共に眠りにつく。
起きてる時間はずっとトレーニング。軽く見積もって人の4倍は練習してる。
異名は「難波のターミネーター」。
近いうちにこのチャンピオンが日本タイトル防衛戦をするのだが、相手は強敵の左利き。
左対策をするためにわざわざ高いお金を払いフィリピンから左利きの選手を大阪に呼んだ。ボクシング界ではお金を払ってスパーリング相手を呼ぶことが度々ある。
このアジアチャンピオンはボクシングの本場ラスベガスで試合したこともあるボクサー。
知る人ぞ知るマニーパッキャオ(マイクタイソンくらい有名)と同じジムで練習している。
フィリピンボクサーのインソンは練習大好き日本チャンピオンと過去に一度対戦しており勝利を収めた。
日本チャンピオンからすると、左利きの練習相手としてはこれ以上に無いスパーリングパートナーである。
うちのジムの大黒柱を打ち負かした人が1カ月間うちのジムで練習する。一体どんな心境でみんなはインソンを迎えるのか。
ジムに入ってきた瞬間、
「おぉーーー!!インソン来たぞ!!久しぶりーー」
「おいっ!!インソン来たでインソン!!」
びっくりするほど大歓迎。リングの外ではみんな仲がいい。
どうやら敵になるのは向かい合った時だけみたいだ。
「インソン元気やった??」
「インソンよう来たなあ」
ちなみにインソンは英語とタガログ語しかしゃべれない。
「Aha,Aha,ha,ha,ha」
どう対処したらいいのかわからない様子でとりあえず笑顔を浮かべている。これから一カ月間、ひたすら殴り合いの相手として練習に参加するインソン。
この日は来日初日ということもあり、これから日本でどのように生活してもらうのか、どれくらいのペースでスパーリングをしてほしいのか、食事はどうするのか、ポケットWi-Fiはいつ届くのか、その他もろもろ説明しないといけないことが盛りだくさんあった。
さて、これらを伝えるのは????
そう、通訳がいないのだ。
基本的にボクサーには学歴が無いことが多い。ここにいる人たちも例外ではない。
みんな英語を喋れないのだ。
もちろん会長も英語はしゃべれない。いったいどうやってインソンを日本に呼んだのか。
会長がインソンとの会話に苦戦している、そんな時に私が呼ばれた。
会長「お前英語しゃべれんの?」
全く自信は無いがとりあえず頑張ってみることにした。
なんてしゃべりかければいいですか?
会長「東南アジア系の人たちは道端で警察に止められやすいねん。だから
『もし警察がインソンに話しかけてきたらおれの電話番号が記載されてるこの名刺を警察に見せて』
って伝えて」
中2レベルには難しい文章だ。
警察はpoliceで、
呼びかけるはcall?、
もしはif、
あなたはyou, , , , , ,
頭の中で必要な単語を引っ張り出して語順を並び替えて、あーしてこーして、、、、。
みんなが私の発言を待っている。
「If police call you~~~~〇▽■※●」
おぉーーーーーー!!!!
歓声が上がった。自分の英語が正解なのかどうかなんて全くわからないが、周りのみんなはもっとわからない。
それらしくしゃべるとみんなが驚いてくれる。インソンも少し安心した顔になる。
「You are my translator(君は通訳してくれるんだね)」
この日から英語力中2一学期レベルで通訳を担うこととなる。
インソンに俺たちの朝練に参加しないか?とお誘いを入れるときも、今日は何ラウンドスパーリングしてほしいと頼む時も、今日は疲れているだろうから練習休んでてもいいよと伝えるときも、毎回「これ伝えて」と頼まれるので、
そのたびに練習の手を止め通訳に回った。
必要な単語を思い出し、並び替えを繰り返す作業は頭を使う。意識がそっちに持っていかれ、集中力が何度も途切れる。
この一カ月間練習の質は悪くなったが、おかげで英語力が中2一学期から夏休みくらいのレベルに上がった。
そんなインソンのボクシングはやはりすごい。
スパーリングでどれだけラウンドを重ねても全然バテない。
攻撃もパンチの見極めもセンスがありクリーンヒットを許さない。なんなら当たらない。要所要所で的確なパンチを当てる。
対する練習大好き日本チャンピオンはフィジカルでは絶対負けない。攻撃の手を止めず休む時間を与えない。ガードを固めて常に前へ前へ。
パンチを浴びても引くなんて選択肢はない。テクニックで交わす相手に対してフィジカルで追いかけ続ける。
日本チャンピオンVSアジアチャンピオン
お金をとってもいいスパーリングだ。
この二人のスパーリングの時だけは誰もが練習の手を止めスパーリングに見惚れる。
2日に一度このビッグマッチをジム内で見学できる。贅沢な一カ月間。
そんなインソンの練習風景はというと、思いっきりさぼる。少しサンドバッグを打って少しシャドーをして、
スパーリングが無い日はこれで終わり。
筋トレなんか全然しない。
サボりすぎてお腹が少しポコッと出てる。
私が自主的にしている筋トレをみて「俺もさせて」と興味本位に参加してきたが、
「しんどすぎるわ!!!」
30分近くあるメニューの2分だけ参加して終わった。
朝練もみんなでランニングするのだがインソンだけ大きく後れを取り、着いてこれないインソンを放ったらかしでどんどんメニューが進んでいった。
そしてインソンは数回朝練に参加して来なくなった。
きっと本人の感覚としては契約で定められた仕事(スパーリング)以外は大阪観光ができる、なんなら大阪観光のついでにスパーリングをしてるつもりなのだろう。
インソンの姿を見ていると、上のレベルに行く為にがむしゃらに練習をするという日本人の感覚は正しいのかと疑問が浮かぶ。
以前もう一人の練習大嫌いチャンピオンが言っていた「走れても意味ないねん。リングでダッシュなんかせえへんやろ!走る筋肉とボクシングの筋肉は違うんや」という言い訳、
実は練習大嫌いチャンピオンは正しいことを言っていたのではないか。
アジアチャンピオンも練習大嫌いチャンピオンも、プロのライセンスが無い私にランニングで勝てない。
「走るって意味があるのか?」
自分より後にジムに入会した人に直近のスパーリングでボコボコにやられたこともあり、努力の方向性に疑問を感じるようになった。
筋トレやダッシュでボクシングが上手くなるわけではない。
力の入れどころはそこではない。
何か大切なポイントを見つけられないでいる。
この段階ではどれだけ考えても検討が付かなかった。やはり道しるべを探し出すまでは量をこなすしかないのか。
気づけば朝練をしている公園に桜が咲き始め、プロライセンスの試験を受ける目安となる1年が経とうとしていた。
力の入れどころをつかみ始めるのは引退試合の半年前、インソン来日から約2年半後である。その半年間私は一気に成長することになる。