⑤かっこいい父親になりたくて、銀行員を辞めてプロボクサーを目指す ~初めての試合観戦~

初回記事「①息子に会いたい」

前回記事「④周りの反応、、、」

目次

プロのジムに入会する前に一度でいいからボクシングの試合を生で見たかった。今までテレビでなら何度も見たことあるが、果たしてテレビと違うものなのか。

場所はエディオンアリーナ(旧名、大阪府立体育館)。1000人ほどが入れる地下の第二競技場。その1000席ほどの真ん中にリングが設置されており、観客席からリングを見上げて観戦する配置になっている。

単なる観客として見に行くだけならなんとも思わないのであろうが、いつか自分もあのリングに立つかもしれないと考えると景色が恐怖に変わる。

こんな大勢の人たちに見守られながら殴り合いをするのか。

いや、見せ物になるのか。

こんなにも大勢の人たちが殴り合いを娯楽として見に来るのか。昔から兄弟喧嘩以外で殴り合ったことはほとんどない。殴り合いは誰かが止めに来るのが当たり前、そんな環境でしか生きてこなかった。暴力に関しては確実に消極的だ。しかしここでは殴り倒すことを求められる。あまりにも違う世界、まだ試合すら始まっていない会場ですでに足がすくむ。

パンチの音が会場中に鳴り響く。人を殴るとこんなにも大きい音が鳴い響くのか。会場の隅にいてもはっきりと聞こえる。バチンという表面的な音からドンという鈍い音。ダウンで人が勢いよく倒れるときの音。全ての音が生々しい。

それらの音が会場に鳴り響いたとき、リングの上にいる選手たちは確実に死に近づいている。どれだけ死に近づいているのかダメージの度合いを観客が把握できるように選手たちは上半身裸で戦わされている。

死が近づいていることがわかるほど観客は喜ぶ。必死で助かろうともがいているのにみんなが喜んでいる。自分の瀕死状態を喜ばれるのは一体どんな感覚なのか、とても惨い。

これを見に来る親たちはどう感じるのだろう。まぶたを切り、鼻血を出し、お腹が真っ赤になり、苦しみ、フラついているのになお殴られている姿を見て会場が沸く。大衆の娯楽の為に子供の危険な姿が晒される。サッカーで負けて泣いて帰ってくるのとは訳が違う。「次は勝てるように頑張ろうな」とはならない。

一刻も早く辞めてほしい。

プロでリングに立つということはこれらを覚悟するということである。テレビを見ているだけではこの深刻さは伝わってこない。

試合の初観戦でリングに立つ重みを勝手に感じていた。

できることなら試合はしないでおこう。ライセンスだけ取れたらそれでいい。32歳からプロを目指してライセンスを取る、これだけでも十分立派ではないか。

1年か2年くらい頑張って練習をし、ライセンスが取れ次第すぐにボクシングを辞め、就職して安定した収入を得るのだ。これがボクシングで掲げる自分の目標だ。それでいい。

リングに立つ、そんな怖いこと自分にはできない。会場の隅っこで逃げ腰になっている間も選手たちは次々とリングに上がっていく。その足取りに一片の迷いもない。

この異様な世界に堂々と飛び込んでいく人たちはきっと普通の人たちと違った感覚を持っている。殴り合いが好きとか血の気があるとかそんな単純な理由だけではない。

ボクシングを始めたからこそわかるこの感覚。きっと自分と同じなのだ。選手達それぞれが自分の何かを打ち破りたいのだ。小さい頃に捨てられた、虐められた、在日で差別を受けた、虐待に遭った、大切な人が亡くなった、どんな過去を抱えているのかはわからないが、精いっぱい自分と戦っている。それがたまたまボクシングと言う形で現れただけなのだ。

この解釈が正しいのかはわからないが、少なくとも一定数いるはずだ。この側面を感じ取った時からボクシングを始めたきっかけを軽い気持ちで質問してはいけないと思うようになった。それと同時にボクシングの面白さを垣間見た瞬間だった。ボクシングの面白さ、それはきっと生き様だ。本気で生きようとする姿が人々を惹きつける。

必死で生きようとする姿はどんなに弱いボクサーでも尊敬できる。見応えの無い試合をしていてもあのリングに立とうとするだけで素晴らしい。

だって自分にはできないのだから。

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